普通の感覚で生きるとは
私は比較的気が短いほうで、職場で理不尽なことを言う人が居たら怒りを感じますし、時には相手に、直接そのことを伝えたりもします。
家に帰ってその出来事を妻に話すと、私の考えすぎだと言われることもあれば、共感してくれることもあります。
人の考えに正しいも間違いもないのが真実だと思いますし、私は私なりの考えに従って人の発言を判断した結果、この人は間違っている、おかしい、と思うのです。
これは私だけでなく、皆、大なり小なり同じように人を見て、判断しているでしょう。
見たまま感じたままをその人へのイメージとして持ち、それが蓄積することによって、その人への評価へと繋がっていく。
良いことは良い、悪いことは悪い、とその人なりの判断基準をもって人を見る。それが普通のことでしょう。
しかし私はそこに至るまでに時間がかかりました。
「普通」が存在しない場所
毒親がいる家庭で、はその普通の感覚を育んでくれません。
家の雰囲気が、子供は黙って親に服従するのみというものだからです。
一人の人として意見を持つことなど、許されません。
親の良い行為は100倍に拡大して、悪い行為は100分の1に縮小して超がつく甘い評価をして、過ごしていくことになります。
人(親)に対する正当な評価など、できるはずもありません。
そうすると、毒親からは何を言われても当然のことだと感じ、八つ当たりをされるなど悪い行為に対しても、何の感情も沸かなくなっていきます。
反対に心からの思いやりなど良い行為は、ほとんどなされないので、子供自身そういったことに関してはピンときません。
結果、常に自己肯定感が持てず、人から何を言われても反応できず、また本当の人付き合いとはどういうものかが、わからない人間に育ちます。
できれば学生のうちに卒業したい問題だが
この親との関係性を外の社会に持ち出せば、大変なことになります。
誰とも上手くやっていけない上に、ずる賢い人からは利用される。
それに対して自分の何が原因なのかも、わからない。そんな状況になっていきます。
もっとも、学生の時代にそういったことにある程度直面し、改善する機会はあると思います。
しかし、未成年の間は毒親との関係を断てないので、どうしても根本から己を変えることは難しいです。
学校生活自体もハードな面があるので、そこさえ乗り切れればよいというところも、あるでしょう。
よって根本的な人間関係の問題は、大人の時期まで持ち越しになります。
そのまま社会に出たら地獄だった
社会に出たら仕事は人と共に進めていくものなので、人との関わり方については、しっかりした感覚が必要です。
学生時代に人との関わりを、うわべのみでこなしてきた私は、社会に出ていきなりつまずきました。
上司、同僚が何を言っているのかわからないのです。
正確には、言っている言葉の意味はわかりますし、質問には答えられますが、何を言わんとしているか、その意図がわからないのです。
実際に、『俺が何を言いたいかわかるか?』などとよく言われました。
当時の私から見ると、社会人の会話は一定の形式に沿って行わなければならないものに見え、私にはその資格が無いように思えました。
それまでの私の会話方法は、自己顕示欲を満たすことに重点を置き、誰かをおとし、不謹慎なことが大好きで、内輪だけで馴れ合い、主張をぶつけ合うようなものでした。
これは今思い出すと、親の考え方とぴったり一致します。
しかし、そのような会話方法は、社会に存在しませんでした。
私は自分がその場所に居るために、身につけておくべき暗黙のルールを、持ち合わせていなかったのです。
仕方なく思うように話すと、段々上手くいかなくなっていき、気付けば色々な人から人間性について指摘され、辛い日々になっていました。
もう意思を持ってはいけないと思い、ひたすら人の言うことを受け入れていた結果、仕事面でも窮地に立たされることになり、辛い思いをしました。
今でも過去の鈍かった感覚を思い出す
それから数年たった今、紆余曲折あって職場においては、まともな感性で立ち回れるようになりました。
そこで思うことは、毒親のマインドコントロールによって作られた価値観は、世間では一切通用しないということです。
まともな世界と毒親の世界では、平行線を描くように交わることがないので、まともな世界の人と上手くやっていきたければ、私自身の一切合切を捨ててしまうしかありませんでした(毒親の世界の要素しか持っていなかったため)。
自分には何もないと思った私は、人から何を言われても受け入れ、その内容の判断をしませんでした。
時にはからかわれていたことも、あったと思います。
理不尽なことを要求されたこともあります。
言われた全てを飲み込みました。
これも重要なことですが、私はそもそも理不尽な発言に対して怒るという感覚もなく、変なことを言われているという意識も薄かったです。
むしろ言った相手を正当化してあげるところがありました。
これは従順な子だったが故の症状でしょう。
ただ、わかりやすく絡んでくる人には、対抗心を燃やしていました。
皮肉など遠まわしな表現になればなるほど、私は反応できなくなっていくという感じでしょうか。
まともな感覚を知った今でも、ふと言われたことに対する反応が遅れることがあります。
人から、『あの人あんな変なこと言ってたね』と、言われて初めて考えることもあります。
こういうことがある度に、まだ後遺症が残っていると感じ、本当に毒親って恐ろしいなと思います。
宗教のマインドコントロールと同レベルのことを行い、何も考えないようにさせるのですから。
将来不幸になる道しかない子供を育てるのは、何と罪作りなことでしょうか。
教育の世界に身を置く【メンタル系教育研究者】
幼少期は明朗快活で好奇心旺盛な男の子だったが、中学受験で勉強し過ぎて、健全な人格形成の機会を逃した、典型的な燃え尽き症候群。
毒親育ちにありがちな『遊びたい』が口癖で、際限なく自由さを求める特徴がある。
現在も家族問題に起因する様々な恐怖症の影響が残っており、日々思考を重ねて改善を試みながら生きている。
家族のことや心の問題など、生きている中で悩んでいる問題に立ち向かうパワーを与えることが記事執筆の目的。
書く内容は一般論をベースとはしません。筆者である私の考えをもとに理論立てていきますので、読者さんには筆者がどういう人間であるかを推察しながら、そこに存在する普遍的な真理を掴みとっていただければと思います。
また教育関連の記事については、自身の経験から、偏差値だけで考えたり、詰め込み式で勉強をすると受験に失敗するという見方を示すことが多いです。
勉強については一番近道は、我流を捨てて素直に学ぶことです。