毒親の今と昔
自由に生きることについて、現代の若者は真面目に考えていて、色々なしがらみに縛られる必要が無くなっています。
私なども十代のときにはありとあらゆる常識を疑い、理論で武装して世の中に挑もうとしたものです。
『現代の自由』に繋がる行動は、現在60代の全共闘世代の頃から見られますが、その世代と私達とでは、大きな価値観の隔たりを感じます。
一本しか無い人生のレール
私から見て60代の人達(私の親世代)は社会や家に所属し、体裁を保つことに縛られています。
もっとも時代背景的に、自分ひとりで生きられない時代だったから仕方ないのだと思いますが、真っ当に会社に勤めて立派な社会人でいることが良しとされ、結婚して子供を作って育てるのが、一人前だという考えしか認めないように見えます。
また、女性は働いて自活するという選択肢が無かったので、結婚して家庭に永久就職するしかありませんでした。
数十年前は結婚率がほぼ100%だったと言いますから、いかに人生の道筋がはっきりしていたかわかるでしょう。
女性は否応無く結婚することになり、多少夫と性格が合わなかったり嫌なことがあっても、我慢しなければならなかったでしょう。
いや、女性だけでなく男性も、家庭内で我慢を強いられる環境にあったと思います。
以上はあくまでも想像です。
しかし、現代みたいに何かあると離婚をしたり、そもそも結婚をしなかったり、多様な生き方がある時代とは一線を画していると思うのです。
毒親の誕生過程
60代の人にとって、一本道を確実に歩んでいく人生では、細かいことに拘らないようにし、持て余した不快さを消化しきれずに、自分や相手にぶつけることになるのは、仕方の無いことかも知れません。
二十代や三十代の人は、感情をあらわにして強引に迫ったりせず、人間関係で不快さを感じなくて済むように、前もって工夫しています。
しかし比較的年配の人はそのあたり気にしないというか、良く言えば大らか、悪く言えば雑なんですよね。
ネガティブな精神を抱え込む人にとっては、本来適当であってはいけない部分なのですが…
ネガティブな感情をそのままにしておくと、やがて隅に追いやられて歪みを生じます。
そして、社会の常識と家の常識と置き去りにされた自分の感情の関係が破綻した時に、毒親の精神が誕生するのだと思います。
そういう意味では戦後の混乱期から日本社会が急成長するあたりの目まぐるしい環境の変化(海外でも目まぐるしさは同じ?)が毒親と認識される存在を産んだと言えるでしょう。
それ以前の時代では同じ毒親タイプの人でもおそらく毒親という認識のされ方はしないのではないのでしょうか。
生きるか死ぬかの時代にそんなことを気にしている余裕はないでしょうから。
毒親に抵抗感を示す世代とその未来
一方、現代では段々と毒親的な思考が問題視され、私達の世代は毒親になる人は、かなり少ないのではないかと思います。
普段の人付き合いが、毒親的要素を排除するようになっているからです。
そもそも恋愛結婚が大半を占める現在では、毒親的気質を持つ人はカップルが成立しにくいはずです。
誰しも性格に偏りがある人とは付き合いたくないですし、無理して付き合う必要もありません。
今後は男女ともにまともな性格の夫婦が増えていくと思います。
以前に毒親という言葉が死語になることを願うと書きましたが、本当にそうなっていくと思います。
私達は最後に毒親の被害を受けた世代として、永遠に毒親を封印するのです。
そして私達も自由になって新たな世界を生きていきたいですね。
教育の世界に身を置く【メンタル系教育研究者】
幼少期は明朗快活で好奇心旺盛な男の子だったが、中学受験で勉強し過ぎて、健全な人格形成の機会を逃した、典型的な燃え尽き症候群。
毒親育ちにありがちな『遊びたい』が口癖で、際限なく自由さを求める特徴がある。
現在も家族問題に起因する様々な恐怖症の影響が残っており、日々思考を重ねて改善を試みながら生きている。
家族のことや心の問題など、生きている中で悩んでいる問題に立ち向かうパワーを与えることが記事執筆の目的。
書く内容は一般論をベースとはしません。筆者である私の考えをもとに理論立てていきますので、読者さんには筆者がどういう人間であるかを推察しながら、そこに存在する普遍的な真理を掴みとっていただければと思います。
また教育関連の記事については、自身の経験から、偏差値だけで考えたり、詰め込み式で勉強をすると受験に失敗するという見方を示すことが多いです。
勉強については一番近道は、我流を捨てて素直に学ぶことです。