人生にとってとても大切なこと
埼玉県内にある老人ホームで、ひとりの老婦人のお別れ会がしめやかに行われていた。
入居者や施設の職員が代わる代わるお棺に近寄り、「有難う」と声を掛ける。
その光景に改めて彼女がこの施設で、いかに愛されていたかを思い知らされる。
私はふと窓の外を見ながら、彼女との出会いを思い出していた・・・
彼女との出会いは3年程前に遡る。
本人の要望を受け、葬儀の生前契約に初めて埼玉県内の有料老人ホームを訪れたのは、ちょうど夏の暑い季節だったと記憶している。
折角だからと重度の認知症である彼女と、半日ご一緒させていただいた。
多くのことをすぐに忘れてしまう彼女が、ひとつだけ常に忘れずに持ち続けていたもの、それは・・・
【感謝の心】
人に何かをしてもらった時、例えそれがどんなに些細な事であったとしても、彼女は心から「ありがとう」という、感謝の心を伝えることを忘れない。
簡単なようで、なかなか出来るものではない。
ましてや彼女はお金を払ってその施設のサービスを受けている、いわば客である。それ故にともすると大きな勘違いをしてしまいそうになる。
しかしながらお金を払っているのだから、【やってもらって当たり前】ではない。 スタッフがいてくれるからこそ私がいる。
それは当たり前ではなく、とても有難いこと。
【有ることが 難しきと書きて 有り難きかな】
故にそこには自然と感謝の心が生まれるのだと、 彼女は微笑みながら、 優しく教えてくれた。
お客様は神様・・・
最近ふとコンビニでひと言も喋らずに買い物をする自分がいることに、気が付くことがある。
こちらはお金を出して買い物をしてやっているお客様なのだから、 わざわざしゃべる必要などない。ましてや言われることはあっても、こちらから「ありがとう」などと言う必要はない。そうおごり高ぶる自分がいる。
だがご婦人の考えを拝借し、自分の行動をかんがみるならば、24時間365日、我々のためにいつでも買い物ができるよう、お店を開けて待っていてくれている人達がいる。
店員さんをはじめ、それを支える多くの人々の存在があって、 はじめて私達は買い物が出来るのだ。
「生活の為」などという身も蓋もない言葉で片付けてしまっては、あまりにもお粗末だ。
思い起こせば接客業のバイトをしていた時分、お客様から 「ありがとう」の言葉をひと言かけてもらうだけで、 どんなに嬉しい思いをしただろうか。
次回来店された時は、もっと喜んでもらおうと、よりいっそう張り切ったものだ。
自分も社会の一員として、サービスを提供する側の人間でもあるのに、なぜかサービスを受ける側である「客」の 立場になると、とたんに感謝の心を忘れてしまう自分。
親兄弟や周りの知人、友人、同僚の親切に対して、なかなか恥ずかしくて感謝の心を伝えられなかったり、やってもらうのが当たり前だと思ってしまう自分。
人の親切に「当たり前」で片付けて良いものなど、ひとつも無いというのに・・・
常に感謝の心を忘れないご婦人。
何をするにも常に誰かしらのスタッフが、さりげなく手を差し延べる。
他のどの入居者の方よりも、スタッフの方々に可愛がられ (良いお年のご婦人にこんな言い方をしたら、 失礼ですね・・・)、気にかけてもらっているのが、半日一緒にいただけの私の目からも明らかだった。
それ故だろうか、ご婦人はとても幸せそうで、まぶしいくらいに輝いて見えた。
思うに人間ひとりひとりには、それほど大きな違いなどないのかも知れない。
もしあるとしたら、それは「自分ひとりでは何も出来ない」という事実に、気が付くか気が付かないかだけのことなのかも知れない。
そしてそれを知っている人間は、決して感謝の心を忘れない。
感謝の言葉はそれだけで周りを幸せにしてくれる。そしてその幸せを何倍にも増幅させて、自分の元へと送り返してくれる魔法の言葉。
「ありがとう」
改めて声に出してみる。
シンプルだけれども、 とても心にしみる素敵な言葉だ。
ご婦人のように少しずつでも感謝の心を伝えられる、素敵な大人になりたい。
暴力の連鎖がこだまするこの世の中にあって「ありがとう」の声が増えたなら、それだけでこの世の中が幸せになる。理屈ではなく気持ちでそれを感じ取ることが出来た。
またひとつ人生の大先輩から、大切なことを教えていただいた一日だった。
明日はお店で買い物をしたら、店員さんに「ありがとう」と一言言ってみようかな。
滞在時間を過ぎ、車に乗り込もうとする私。部屋の窓が開き、私に向かってご婦人が叫ぶ。

心のこもった温かい言葉に心が踊る。
屈託のない笑顔と、くもりの無い透き通った声が、飛びっきり優しい気持ちを運んで来てくれた。
気が付くと思わずそう叫び返していた。
あの出会いから3年の年月が流れた。
その後一度だけ近くに用事があったついでに、彼女に会いに行ったことがある。しかし、生憎体調を崩して近くの病院に入院中とのことで、結局会えずじまいだった。
彼女はあの時と変わらぬ笑顔で、棺の中に横たわっている。
ひとつだけ違うのは、もう彼女の口から「ありがとう」という言葉を直に聞くことは出来ないということ・・・
会うと約束しながら、会えなかったことに少なからず悔いが残った。
申し合訳ない気持ちで棺の中で眠る彼女に目に向けていると、職員のひとりが横にやって来て、こんなことを教えてくれた。
あの日・・・私が帰った後、彼女からこう言われたというのだ。
彼女は私がまた会いに来てくれると信じていたらしい。しかし自分の病気をある程度理解していた彼女は、その時、自分が私のことを覚えていなかったら、私を酷くがっかりさせてしまうことを心配していたと言うのだ。
だからもし私が訪ねた来たら、病気で入院していることにしてくれと伝えていたらしい。
本人にとっても不本意な選択だったことは想像に難くないが、最後まで他人に対する配慮を忘れない、あの人らしい優しさだったと理解している。
今頃は浄土の世界で、【感謝の種】を撒き続けていることだろう。
故人の新たなる門出が、素晴らしいものでありますようにと、心から願わずにはいられない。
合掌・・・