お釈迦様は29歳の時にこの世の【苦】を憂い、王族の地位を捨てて出家した。
それは人間に課せられた、大いなる苦しみを乗り越える術を見出すための、長い長い旅の始まりに過ぎなかった。
四苦(生老病死)
釈迦が説く、人間の最も大きな苦しみとされる四苦(生老病死)。
生まれ、生きる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
そして一番最後にやって来る最大の苦しみ、
それが死ぬ苦しみだ。
意外に感じるかも知れないが、お釈迦様だって元をたどれば、ひとりの人間だ。普通の人間と同じように死ぬのは怖いし、出来れば死にたくはない。
釈迦の修行と布教の歴史は、同時に自らの死の苦しみから逃れるための戦いの歴史でもあったのだ。
しかし、その旅の果てに釈迦は悟るのだ。
あぁ、何人たりとも死から逃れることは出来ないのだ、と・・・
無常表白
新義真言宗が好んで葬儀で唱える無常表白は、こんな一説から始まる。
大覚三明の月 既に沙羅林の雲に隠れ
(だいかくさんみょうのつき すでにさらりんのくもにかくれ)
釈帝十善の花房 遂に歓喜園の露に萎む
(しゃくたいじゅうぜんのはなぶさ ついにかんぎおんのつゆにしぼむ)
大覚三明と釈帝十善は共に【偉大な力を持った釈迦】を表す尊称のこと。
その人物が、既に隠れ、遂に萎む。
つまり、釈迦をもってしても、この世における最期の時から逃れることは出来なかったと言う訳だ。
さらに無常表白は、こう続く。
三界穢土の掟、蓋し以って斯くの如し。
(さんがいえどのおきて けだしもってかくのごとし)
三界穢土とはこの世のこと。
(あのお釈迦様ですらその死を免れることが出来なかったのだから)どうして我々にそれが出来ようか?いや出来はしない。
意訳すれば上記のような意味になる。
無常表白はこれから真言宗の真理へと続いていくのだが、今回の話からは少しずれるので、それはまたの機会にするとして、いずれにせよ人はやがて死ぬ。その現実からは何人たりとも逃れることは叶わぬものなのだ。
無常表白は冒頭部分で、我々にそう諭すのだ。
釈迦の最期
話をお釈迦様の最期に戻そう。
お釈迦様が80歳になった時、この世での旅は終わりを告げる。
死期を悟り、故郷のシャーキャに戻る途中のクシナガラで、いよいよその時を迎える。
お釈迦様は死を前にして、弟子たちとこんなやり取りをしている。
そう懇願する弟子たちを、釈迦は優しくこう諭す。
昨日、枕元に来てくれた気がした・・・
近くで見ていてくれている気がした・・・
ふと故人の存在を感じた・・・
生きているときには感じることが無かった、その人の存在を確かに感じることがあるだろうか?
あなたとあなたの大切な人は、確かに強いきずなで結ばれていると感じられるのではないだろうか・・・
「終わり」は「始まり」
昔のインド(今もだが)も現在の日本も、頂いた命を返した先に待っているのは、肉体の焼失という辛い現実だ。
釈迦の遺体に火を灯した弟子たちと同様、親類縁者は肉体の見納めの時を迎える。
得も言われぬ、不安と悲しみに包まれたご遺族を前に、彼らにしてあげられることは何もない。
しかしそんな時は、お釈迦様の言葉を思い出して欲しい。
何かの終わりは、何かの始まりに他ならない。
さいごに
この世とあの世、世界は違えど、我々は確かに繋がっている。
親から子へ、子から孫へ・・・
死者と生者を結ぶ精神的な繋がりの輪は、今日も明日も少しずつ、太く、大きく、より強固なモノになってゆく。
火葬とはそうした新しい関係に我々を誘うための、大切な【始まりの儀式】なのだ。
目を閉じれば、故人との確かな精神の繋がりを、その心にしっかりと感じることが出来るのではなかろうか?
強い精神的な結び付きという、新たな心の絆を得て、死者は新たなる修行の旅に赴き、生者は明日に向かって生きていくのだ。
それぞれが目指すべき頂きに向かって。。。
お釈迦様の最後の教えが、ほんの少しでも遺族の悲しみや不安を和らげる手助けになってくれれば、これ程嬉しいことはない。