大切な人を失ったあなたへ・・・
ひとりの人間には二回の「死が訪れる」という有名な言葉がある。
一度目は我々が通常使っている肉体的な死、二度目は人々の記憶の中から消え去り、誰からも思い出されなくなった時・・・
第一の人生は儚い
100歳を超える高齢者から、二桁にすら乗らない子供まで・・・
言うまでもなく、葬儀屋はありとあらゆる年代の葬儀に立ち会う。
どの葬儀も悲しいが、一般的には50代をひとつの境とし、それより若ければより悲しみは深くなる。
しかし、長い目で見れば100歳まで生きた、大往生の人間だろうが、50代半ばで早すぎる死を迎えた人間だろうと、何十億年、何百億年と続く宇宙の歴史の中ではその一生など刹那、一瞬でしかない。
何歳で逝こうが、詰まるところ第一の死までの時間は、所詮第二の人生を生きるための種まきしか出来ない。
人生を二度生きる
『人は二度死ぬ』という言葉に抵抗があるなら、『人は二度生きられる』という言葉に言い換えてはどうだろうか。
どちらにせよ自らの第二の人生をスタートさせるには、共に生きてくれる人達が必要だ。つまりこの世で可能な限り素晴らしいご縁を作ること・・・
これが第一の人生で必要なこととなる。
そしてあなたの大切な人はこの世であなたに出会った・・・
自分の大切な第二の人生を安心して任せられたあなた・・・
『こんな時、お母さんだったら、こうするんだろうな~』
『そう言えばおじいちゃん、あんなこと言ってたっけ・・・』
『こんな姿見られたら、生きてたら、お父さん、また真っ赤になって怒るんだろうな~』
『もうクヨクヨするのはやめました。最近、【私の分まで人生楽しみなさい!】って、妻にお尻を叩かれてる気がして・・・』
『私の子も生きていればちょうど君くらいの年齢になるんだよ。残念ながら長くは生きられなかったけど、あなたはあの子の分まで、長生きしてね。』
あなたが故人のことを思い出すたびに、故人の第二の人生はよりいっそう、輝きを増していく。一回目の人生は、故人が自分の意志で作り上げたものだが、第二の人生がどの様なものになるかは、あなたにかかっている。
我々にとっての「仏」とは、いつも一番近くでじっと見守ってくださる存在だと、仏教は説いている。
あなたが今日も(あの人なら・・・)と心の中でつぶやくたびに、
『おおっ!私の蒔いた第二の人生の種が、しっかり育っているじゃないか!アハハハ』
あなたの隣で高笑いをしているに違いない。
亡くなった大切な人に会いたければ、いつでも会うことができる。
それが『人は二度死ぬ』もとい、『人は二度生きることができる』素晴らしさというものだ。