日本人の持つ寛容性
新年は神社にお参りし、ハロウィンやクリスマスを盛大に祝い、葬儀は仏式。
八百万の神を受け入れる柔軟性は、時に世界中の人々から、批判と軽蔑を持って見つめられるものです。
他民族のみならず日本のテレビコメンテーターの中にも、ハロウィンで盛り上がる渋谷の街を、渋い目で見つめる人間も少なくありません。
しかし、私自身はこの柔軟性をもった考え方を、少しばかり誇らしく思っている部分もあります。
修道女が見せた神対応
先日の葬儀での話。
自身は仏教徒でありながら、他の宗教とも積極的に関わり、宗教全体の発展に貢献した故人。
そうしたことから参列者の中に、数人の修道女の方がいらっしゃいました。
キリスト教の葬儀といえば、焼香ではなく白のカーネーションを献花するのが仕来たり。
一神教であるキリスト教は、他の神仏へ祈りを捧げることを極端に嫌います。
故に焼香などもっての外。
参列したとしても、焼香には立たないキリスト教徒の親族もザラです。
ましてや教会に勤める修道女となれば尚更です。
参列者の中に修道女の集団を見つけ、焦る私。
というのも、その葬儀で使っていた花は基本的に菊。
白どころか、カーネーションはもちろん、代用できそうな洋花も用意できそうになかったのです。
私は急いで焼香の列に並ぶ修道女達の元に駆け寄り、事情を説明。『お手合わせだけでも結構です』伝えました。
にこやかに微笑む修道女達。
しかし、焼香台に進み出た彼女達は、何の躊躇もなく、焼香を始めたではありませんか!
これには見ているこっちがビックリ!
しかし、当の本人達は次々にお焼香をし、何事もなかったかのように去っていくではありませんか。
私はあわてて彼女たちの後を追っかけ、本日の非礼を詫びました。
しかし、リーダーと思われる年配の修道女の口から出た言葉は、思いもよらないものでした。
微笑みながら去っていく彼女たちの姿に、深々と頭を垂れることしかできない自分がいました。
宗教と寛容性
世界中で繰り返される宗教対立。
多くの血が流される今日の世界において、それを理解できない日本人を【無宗教観の支配する愚の骨頂】とする他国の見方が大多数を占めます。
しかし、この柔軟性こそ、実は今最も世界に必要とされている、価値観なのではないでしょうか?
自らの信仰する宗教意外を認めず、他宗教を排除しようと多くの血を流す世界と、他を受け入れ共存することを望む世界。
はたして神や仏が説く『世界』とは、一体どちらの世界のなのでしょうか?
仏教特有!回向文(えこうもん)
最後に回向文を紹介させていただきたい。
【原文】
願以此功徳 [がんにしくどく]
普及於一切 [ふぎゅうおいっさい]
我等与衆生 [がとうよしゅじょう]
皆共成仏道 [かいぐじょうぶつどう]
【訳】
願わくは私の行った善い行いの果報が、 この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、 自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが、 皆と共にあらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように。
簡単に言うと、以下の通り。
【私がした良い行いで得た素晴らしいエネルギーを、世界中に還元し、共に幸せになろうではありませんか!】
葬儀の最後に唱えられることの多いこのお経の考え方は、世界広しといえども、自分は自分との考え方が強いキリスト教などの宗教と違い、仏教特有の考え方です。
この仏教の精神に、【郷に入れば豪に従え】の日本の心が合わさった時、世界の平和とは案外たやすく実現できるものなのかも、知れませんね。