いくつになっても親にとって子供は子供なのと同様、子供にとってやはり親は親だ。
若くして親を亡くそうが、天寿を全うして別世界に旅立とうが、悲しさは同じ。
親の死を前にして、悲しみに暮れる子供というのは、葬儀において最も見慣れた光景だ。
以前私の祖父が亡くなった時の話。
悲しむ私の両親(故人からすると子供)に、僧侶が『親終い』という話をしてくれたことを思い出す。
真言宗のお経の一説にこんな一説があります。
大覚三明の月 既に沙羅林の雲に隠れ
釈帝十善の花房 遂に歓喜園の露に萎む
有為無常のたい 三界穢土の掟 蓋しもって かくの如し
これはあのお釈迦様ですらその死を免れなかったのだから、どうして我々がそれを出来ようか?というお経の一説ででございますが、言うまでもなく我々は一度この世に生を受けたからには、必ずその命を返さなければならない時が来る。
順当にいけば親の最期を看取るというのは、子供にとっては謂わば、宿命のようなものでございます。
それは大変に悲しいことです。
大変に悲しいことだけれども、人はその悲しみを背負うことによって、人の痛みを知ることが出来る。
故に人に優しく出来るのだ。
そしてその悲しみを乗り越えることが出来た時、人は人としてひと回りもふた回りも成長することが出来るものである。
子供にとって親の死というのは、親がその身をもって教えてくれる、最後にして最大の教えである。
だからこそ、その悲しみから逃げてはいけませんよ。
あなた方はその思いをしっかりとその身で受け止め、誇りを持ってこれを乗り越えていかなければ、ならないのですよ。
そう、優しく教えてくれた。
私も順当にいけば、いつか自分の親の最期を看取る身です。
この言葉はいつか来たるその日まで、私が大切にしている言葉のひとつです。
親を亡くして悲しみに沈む、世界中の全ての子供たちの心に、少しでも癒しと勇気をもたらすことが出来なたら、これほど嬉しいことはありません。