イスラムの絶対禁忌
イスラム教では葬儀やその他の場合において、一般的に火葬や焼殺(焼身自殺)は固く禁止されており、死刑を超える最高刑としてのみ行われる行為だ。
イスラム教徒(ムスリム)にとっての火葬・焼殺(焼身自殺)の意味するところを考える。
アフガニスタンの首都カブールで3月、女性がイスラム教の聖典『クルアーン(コーラン)』を焼却したとして群衆に暴行、殺害された事件で、同国の裁判所は6日、4人の被告に死刑判決を言い渡した。
事件は3月19日に起きた。ファルクフンダさん(当時27歳)は男たちから殴る蹴るの暴行を受け、体に火をつけられたうえ、橋から川へと投げ落とされた。
アフガニスタンの宗教当局によれば、ファルクフンダさんがコーランを焼いたという証拠は見つかっていない。
焼殺と聞いて思い起こされるのは、イスラム国がヨルダン人パイロットを焼殺した事件。私を含め多少なりともイスラム文化に精通している人間からすると、このニュースは衝撃だった筈だ。
イスラムにおける焼殺(火葬)について考えながら、パイロット殺害を振り返りってみたい。
ルーツは古代エジプトの死生観
そのルーツは古代エジプトにある。
古代エジプトでは来たるべき復活の日(来世の始まり)に備え、魂の宿り所となる現世の肉体を、そのまま保存しておくという宗教観が、ミイラ作りの文化を育んだ。
啓典の民にとっての火葬
その思想はその後の宗教にも多大な影響を与えるのだが、これはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった所謂、「啓典の民」と呼ばれる、これらの宗教にとっても例外ではない。
教義によれば人間は死後、何れ訪れる最後の審判を経て復活する。
天国と地獄、永遠に続く来世をどちらの場所で過ごすかについては、現世での行ないにより、定められるとある。
天国に行った者は永遠の幸せを、地獄に行ったものは永遠の苦痛を味わい続ける訳だが、そこで復活の大前提となるのが、この世ので使っていた肉体、つまり遺体が残っているか否かということなのだ。
遺体の消失は最後の審判を受ける権利の消失であり、即ちそれは来世での復活を完全否定するものとなる。(遺体の消失とは、火葬された遺体を指すもので、土葬された遺体については、遺体の消失は認められないと判断される。)
これがイスラムで火葬が御法度とされる所以である。
一方同じ啓典の民でも、先進国におけるキリスト教国を中心に、宗教離れが進んでいる。また土地の確保・伝染病等の観点から、カトリック教会が火葬禁止を解いたことにより、アメリカなどでは火葬率が30%を超えた。
しなしながらイスラムと言えば、今でも大変に宗教に熱心な人々が多いことで知られる。生死の有無に関係なく、最後の審判を受ける権利を奪うことになる焼殺(火葬)などという行為は、ある例外を除いて、今も固く禁じられている。
ムスリムにとっての火葬
イスラム教において焼殺(火葬)は、死刑を遥かに超える最高刑だ。
「イスラム」とはアラビア語で「委ね」を意味する。これは基本的には全ての判断を神に委ねるということだ。
よって基本的には例え殺人を犯したような大悪人であろうとも、最後の審判における裁きは、皆一様に神が下すという考え方がある。
神が決断を下すまでもなく、来世に蘇らせたくはない、蘇る資格すら無いと判断さられた時のみ、遺体は火葬される訳だが、先述の通り、よほどのことがない限りこの決断がなされることはない。
故にイスラム教徒にとって、精神的にこれ程重い裁きは存在しない。
その他
それ以外にもいつくか理由がある。
アラビア語で「火」のことを「ナール」と言うが、この単語は同時に「地獄」という意味も持っている。遺体を火で炙ることは、即ち死者に地獄の苦しみを味あわせることと考えている。
また、生命は大地から生まれ、大地に育てられ、そしてまた大地に帰るという考えもあり、そうした観点からも土葬が大きな意味を持ってくる。
ヨルダン人パイロットの焼殺
こうしたことを踏まえた上で、先ほどの事件を振り返ってみよう。
イスラム国がパイロットに行った焼殺や今回コーランを焼いた疑いで火を付けられた女性は、神の裁きを待つまでもない、極悪非道の大罪人として、来世への復活という最大の救いすら、奪われたことを意味する。
コーランを焼いた女性はともかく、その一縷の希望を打ちひしがれた、パイロットの遺族や国民の心中、いかばかりのものか、察するに余りある。
勿論パイロットの遺族は「ジハード(聖戦)」を、最後の拠り所とするだろう。
イスラム教徒にとって、その存在を脅かす異教徒との戦いをジハードと呼び、ジハードで命を落とした者は、その他一切の条件に関わらず、即天国行きが約束されると言う。
アッラーの教えに背き、蛮行を続けるイスラム国。彼らをイスラムの名を語る背信教徒と見るならば、パイロットは真のイスラムを守るジハードの中で、殉教したと捉えることも出来る。よってヨルダン人パイロットの家族は、天国行きは約束されると、主張するのは当然の流れだろう。
しかしながら遺族とヨルダン国民にとって、家族(ヨルダン国民にとっては自国民)が殺されたことと、そして天国行きか地獄行きか解釈の違いはさておき、現実として焼殺されたという事実は、決して拭いきれない程、暗く深い影を落としたことだろう。
仮にも「イスラム」と名乗る人間達のやることとは、到底思えない、悪魔の所業と言わざるを得ない。断じてイスラム教徒の集団などとは、認めることは出来ない。
この様なイスラム教徒を騙る一部の愚者達の為に、平和を願う多くのイスラム教徒達が、非難の的になることは、とても悲しことだ。
いつの日か世界中の宗教がお互いの存在を認め、尊敬し合える世界来る日は訪れるのだろうか・・・
日本人と宗教
しかしながら歴史を紐解いてみれば、まだ宗教というものに熱心だった、我々の祖先を振り返ってみると、どうだろうか?
我々の祖先達は苦しい日々の暮らしの中で、来世に一縷〔いちる〕の望みを見た。
現世の苦しい暮らしは、因果応報、つまり前世での行いが良くなかったからだと、信じて疑わなかった。だからこそ来世こそより良い人生を送れますようにと、必死に念仏を唱え、仏の慈悲にすがろうとしたのである。
辛い現世を耐え抜いた先に、安穏な来世がある。古今東西、洋の東西を問わず、宗教とは往々にしてを、そうしたことを諭すものなのである。