犯人は人質ひとりひとりにクルアーン(コーラン)を朗読させ、出来ない人間を異教徒として虐殺した。
バングラデシュの首都ダッカで日本人7人を含む、20人が殺害されたテロ事件について生存者が語った内容が、世界中を震撼させている。
熱狂的なイスラムの国エジプトでは、聖典であるクルアーン(コーラン)は生活の一部だ。
人口の1割を占めるコプト教徒(キリスト教の一派)や、微々たる他宗教信者を除けば、大人から子供まで街の誰もがクルアーンの暗記に余念がない。
私は一時期エジプトの大学で、アラビア語とイスラム教について勉強していたことがある。
もちろん常にクルアーンはその中心にあった。
エジプト人はとにかく人懐こい。
私が留学していた街は首都カイロではない。それなりの都市ではあるが、日本人は圧倒的に少なかった。そんな私はどこに行くにも、彼らの注目の的だった。
彼らはとにかく私と話したがった。
そして遥か遠い東洋からやってきた学生がイスラム教を学んでいると聞いては、誰もが目を輝かせたし、彼らに催促されてそらんじる、私のクルアーンやシャハーダ(信仰告白)は、常に人々の熱い賞賛の的だった。
私にとってクルアーンとは、彼らの社会や文化の中に飛び込む、いわば鍵のような存在だったのだ。
何度も繰り返したクルアーンの冒頭部分(開端章・ファーティハ)やシャハーダ(信仰告白)は、今でも私の記憶から消えることはない。
こめかみに銃を突きつけられ、「イスラム教徒か?」と言われたら?
「クルアーンを唱えろ!」と脅されたら私はどうするだろうか?
実のところ私はイスラム教徒でも何でもないが、間違いなく私はイスラム教徒だと嘘をつき、記憶の中のクルアーンやシャハーダ(信仰告白)を必死に唱え、可能な限りのアラビア語を叫んだだろう。
もしかしたら私は助かるかも知れない。
そうしてもし私があの場にいて運よく命が助かったならば、(良かった!)と、心底思ったに違いない。
だか、今いくらその場面を想像してみても、嬉しさよりも、心の底から真っ黒いものがこみ上げてくるような、そんな気持ちにしかならない。
『お前はムスリム(イスラム教徒)か?』と問われ、
『レッサ、シュワイヤ(ちょっとまだかな~)』と答えると、
ちょっぴり残念そうに、それでも異教徒である私を出来得る限り理解しようと努め、温かく私を受け入れてくれる・・・
それが私が過ごしたイスラムという世界だった。
言うまでもなくクルアーンは、人の生と死を分けるために作られたのではない。
怠けのもの人間を神が、より人間らしく規則正しく生きていけるようにと下された(と、ムスリムは信じている)ものだ。
前述のとおり私はイスラム教徒ではないが、その精神は嫌いではないし、今でも街のあちらこちらで、独特の節を付けて語られたクルアーンの詠唱が大好きだ。
【アッラーアクバル】と同様、イスラムという文化を理解し、その社会に溶け込むための大きな手助けをしてくれたクルアーンが、その様な道具に使われたことに、ひどく心を痛めないはずがない。
ますます激化するイスラム過激派によるテロ。 そのテロが繰り返される度に、少しずつ私の中の、大切なイスラムへの思いが、汚されていくのは、何ともやるせない。
テロに対する憤りと、そして大切な「心の中のイスラム」が汚されていくことへの哀しみ、そんな2つの思いを胸に、メディアから流れる悲惨な事件を見つめているのである・・・