【フランス人は皮肉好き?】シャルリーに見る『風刺』と『表現の自由』

風刺と表現の自由について考える。

3月18日、フランス「シャルリー・エブド社」発売の風刺週刊誌に、福島第1原発の事件を揶揄する風刺画が掲載された。

【フランス人は皮肉好き?】シャルリーに見る『風刺』と『表現の自由』

煙を上げる原発施設をバックに、防護服を着た作業員が、放射能で巨大化した鳥の足跡を見ながら「今年最初のツバメ」と話す。

フランスのシャルリーと言えば、イスラム教の開祖、ムハンマドを揶揄する風刺画を数回にわたって掲載。事務所が狙われる事件も起きており、フランス当局からも警告を受けていたにも関わらず、イスラムに対する侮辱とも言える風刺を続行。

結果、12人が殺されたフランス紙襲撃テロ事件へ発展した。

フランスにはアラブ系を始め多くの移民が暮らしている。フランス政府が労働力を補う目的で、移民を積極的に受け入れてきた結果だ。

尚、度重なるイスラム批判対して、アラブ系移民の反発が大きくなった時、生粋のフランス人らは「フランス人のブラックユーモアを理解できない人間は、もはやフランス人ではない」と一刀両断に切り捨てた。

そうした身勝手で自己中心的な態度は、さらなる悲劇を生むこととなる。

イスラム国が起こした日本人人質殺害事件。これはテロ事件を起こしたアルカイダ系イスラム過激派組織と対立するイスラム国が、世界の注目を自らの元に引き戻すために行ったものだと言われている。

その影響は計り知れない。

経緯は以下の記事に詳しく書いた↓

同性愛者として描かれた預言者ムハンマドに、「やっと白くなれました」のコメントが付けられた首から下が骸骨のマイケルジャクソン、はたまたローマ法王、はてはイエス・キリストなどなど・・・

行き過ぎるフランス風刺画の餌食となった対象は、何も福島原発だけではない。

日本人からすれば全くもって理解できない、ブラックユーモア(嘲笑・風刺)センス。しかしフランスとはそういったお国柄なのだ。

【フランス人は皮肉好き?】シャルリーに見る『風刺』と『表現の自由』

苦い経験がある。

私がフランスをバックパックを担いで旅していた頃のこと。

道がわからなくて困っていた街頭で、あるフランス人の若者に助けられた。

フランス語の話せない僕のた為に、英語で懇切丁寧に、目的地までの行き方を説明していくれた。

私は大変恐縮しながら、心からお礼を言って別れた。

思いの他、目的地まで時間がかかることがわかった私は、もう一度計画を練り直す為に、外で呼び込みをしていた店主に誘われるまま、目の前にあった喫茶店に入った。

その店の店主はとても気さくなアラビア系フランス人で、すぐに仲良くなった。

その店主が私に教えてくれたことがあった。それは先程の若者が、別れ際に私に向かって言ったフランス語の内容だった。

少し長い言葉だったが、おそらくは「良い旅を」とか「フランスを楽しんで」的な内容だと思っていたのだが、とんでもない間違いだった。

「あなたは私達の政府が入国を許可したゲストなのだから、国民全員でもてなす義務がある。例えそれがフランス語もロクに話せないサルでもね」

痛烈な皮肉だ。

店主は僕に謝りながら、

「あの人に悪気はない。それがフランス人だ」と教えてくれた。

また旅先であった日本人留学生は、留学したての頃に、

「フランスはあなたの国(日本)ほど先進国ではない。だから外からやって来る薄汚い【動物】を、空港で追い返す制度すら整っていない。」

と、言われたことを話してくれた。

フランス人の痛烈な皮肉や風刺好きは、国民性だというのは良くわかる。しかしローマ法王が語った通り、モノには限度がある。

自らが絶対と信じて疑わない存在、自らの命より尊いと信じている存在が侮辱されたら、一体どうだろうか?卑劣なテロは絶対に許されないことは確かだが、一方でイスラム教徒の怒りが、到底測り知ることは出来ないものであったことも確かだ。

それでは福島の被災者達の気持ちはどうだろう?

津波により一瞬にして家族や家を失い、原発により故郷すら失った被災者の気持ちは?

表現の自由だか何だか知らないが、この世の人間として彼らの心を踏みにじっていい権利など、誰も持ち合わせてはいない。

「風刺」が「パロディ」と違い、政治・社会・倫理に対する真っ向からの批判や嘲笑、冷笑である以上、必ずしもそこに純然たるユーモアを求める必要はない。

つまり「本気で笑えない」を地で行くのが本来の風刺だ。

しかしそれが単に多くに人を傷つけるだけのものならば、それはもはや風刺でも何でもない。「表現の自由」という名の暴力にしか過ぎない。

だからこそ基本的に風刺とは弱者(市民とその声を伝えるメディア)から、国家元首などの強者に向けて発せられるものでなくてはならない。それこそが長きに渡る絶対的な王政の元、権力に対する自己防衛の手段として、フランス庶民が身につけた、ブラックユーモアの原点なのだから。

更に言えば万が一強者から弱者に向かって発信する風刺であるなばら、風刺の対象となる人間達が、基本的に共感できるものでなくてはならない。それがなければ「表現の自由」をの名を借りた、弱い者いじめ以外の何物でもない。

そうった意味で、それを無視して「表現の自由」などと声高に唱えるフランス人は、自由の本質を履き違えていると言えよう。

言葉を続けよう。そもそも大人の掲げる「自由」とは、自らの行動に全ての責任を負うという、絶対条件の上に成り立っている。

自由だからといって物を壊せば弁償(場合によっては器物損壊で刑事罰)

自由だからといって人を殺せば殺人罪

自由だからといって何でも掲載したら・・・

罰則は無し?

残念ながらそうではない。

「表現の自由」の「自由」が一体どの程度まで許されるものなのかは、時代が後付けで決める。殺人罪は昔も今も最高刑かそれに準ずる罰が用意されているが、イスラム創世期にムハンマドを揶揄するビラをまいたところで、全くもって問題にもならない。

しかしひとたびその時代の「自由」から逸脱した自由を主張するならば、必ずや誰かしらからその制裁を喰らう。

それが今回で言えばイスラムからの反発であり、一連のテロだった訳だが、他国にまで多大な迷惑をかけた以上、この期に及んで彼らに自由を語る権利などない。  

シャルリーの歴史は1960年台あたりから始まる(その頃の名前は『Hara-Kiri』《アラキリ》 名前の由来は日本の腹切りから。ばかばかしくて意地悪なものという意味を込めて)

その頃までならまだギリギリ「内輪向けに発行したもの」で済んだのかもしれない。しかし高度な情報化社会においては、そうはいかない。

ならば情報化社会の一員として、責任ある行動を取るべきだ。それが出来ないようでは国際社会に向けてやれ自由国家だの、やれテロの撲滅などど越え高に唱える資格すらない。

余談だが「自由」というのは、実のところ最も厄介だ。

まだどこかで線引きしてくれた方が楽だと思わずにはいられないが、案外「自由」というのが一番「不自由」なのかも知れない。

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