太平洋戦争体験記
繰り返される負の連鎖・・・
血で血を洗い、したたり落ちた血が川となり、やがては海となっても人間は、互いに傷つけあうことを止めようとはしない。
暴力は暴力しか生まないと誰もがわかっていても、自ら負の連鎖を断ち切る勇気も、気負いも、使命感も持ち合わせていない。
キリスト教VSイスラム教
パリ同時多発テロを受けて、フランス軍がIS(イスラム国)に対する過去最大級の空爆を行った。
すでにロシアもISの首都ラッカに大規模な空爆を行っているが、ここにきて英国のキャメロン首相も、有志連合の行うシリア空爆参加への意向を示した。
イギリスはイラクへの空爆を行う一方、シリアへの空爆は議会で否決された過去を持つが、今後は国際情勢の波に乗って、一気に軍事行動を加速させる可能性がある。
こうした欧米諸国の動きに対し、イスラム過激派によるテロ行為も、一層激化の兆しを見せている。
第二次世界大戦体験記
おぞましい負の連鎖は、人々を醜い怒りと、耐えがたい悲しみに染めながら、すでに制御不可能な程の勢いで、世界を駆け巡り始めた。
絶望的な国際情勢に心を傷めていた最中、ふと太平洋戦争で姉を失った、黒柳美恵子さんのことが頭をよぎった。
「この目に映った地獄絵は、九死に一生を得た私たちが伝えなければいけない」。黒柳美恵子さん(82)(大田区)はしっかりとした口調で誓った。
高尾山にほど近い八王子市裏高尾町で開かれた、湯(い)の花トンネル列車銃撃事件の犠牲者を悼む集会でのことだ。
68年前のこの日、黒柳さんは2歳上の姉良子さんと、中央線で長野県へ向かっていた。
当時、学校は空襲で焼かれ、夜中に空襲警報でたたき起こされるのもしばしば。母ますえさんの実家に疎開するところだった。
バリバリバリ! 轟音(ごうおん)とともに米軍戦闘機P51の銃撃を受けたのは、正午過ぎ、列車が湯の花トンネルにさしかかった頃だった。
驚きと恐ろしさで黒柳さんは突っ伏した。
どのくらい時間がたったか分からない。周りが静かになり、顔を上げると、向かいに座っていた姉は頭を撃たれて死んでいた。
遺体が折り重なり血の海となった車内を無我夢中で出た。
この空襲で52人以上が亡くなった。
黒柳さんは一度帰宅し、翌日、父と遺体を確認しに来た。
戸板に寝かせられた姉は、父が顔をきれいに拭いてあげた後、松根油で荼毘(だび)に付された。
母は姉の死に顔を見られず、ずっと悔やんでいた。親子2人で食事の支度中、姉を思い出して泣いたこともあった。
母は後々、「3年間は笑わなかった」と語っていた。
事件は徐々に忘れられていく。
『母は文字通り、悲しみだけが残った、という様子だった』と黒柳さんは振り返る。
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さらにTBS特番『戦後70年~千の証言~私の街も戦場だった』の中で、柳さんは襲撃直後の記憶をこう振り返る。
『腕が落ちています。血の海の中で白く見えるのは、ざくろのように割れた頭から脳が溢れているのです。男の子を預かった女の人の体に穴が開き、男の子は鼻と口を削がれました』
『みんな無事に(疎開先へ)着くと思ってますよね』
そう語る黒柳恵美子さん。
平和な時代を生きる我々には想像すら出来ない、辛く悲しい凄惨な記憶。
幼い彼女の心にどれ程重くのしかかったのだろうかと思うと、涙が止まらない。
決して背負いきれないけれども、それを背負って生きざるをえなかった彼女の今の心境とは?
姉を殺し、一家を奈落の底へと突き落としたアメリカ兵への思いとは?
抑えきれない憎悪か?湧き上がる復讐心か?はたまた・・・
その答えについて、彼女はこう言ってインタビューを閉めた。
『(銃撃を行ったアメリカ兵の)顔を見たら、恨みを言うような(憎々しい)顔をしていない。戦争は勝っても負けても、悲しいことが起きているのでしょう』
『ちくしょう、戦争は地獄だ。残酷で冷たくて犠牲はあまりに大きい』
確かに当時の攻撃記録から、列車に攻撃を加えたことが判明した元米兵士ジョン・グラント氏(故人)は、大きな苦悩の中、上記の言葉を残して死んでいったことが分かっている。
しかし、だからといってそう簡単に家族を惨殺した人間を許すことは難しい。
それでも彼女は彼を許すというのだ。
『結局憎しみは憎しみしか生まないもの。誰かがどこかで止めなくては。もう(悲しみを背負うのは)私で十分』
そう語る彼女の穏やかな顔が印象的だった。
彼女のような無数の英断が、太平洋戦争における310万人の死を乗り越えて、今日の平和で豊かな日本の実現を可能にしたのだ。
宗教の神髄
話を冒頭の話題に戻すが、人間にとって最も尊く、気高いこと・・・
それは世界を席巻する多くの指導者のように、高々と自らの正義を掲げることでもなければ、ましてやその正義という名の刃を、相手の喉元に突き立てることでもない。
他人を『許す』ことだ。
だからこそ人は常に、何物にも代え難いその尊い行為(許し)を、神仏に求めてきたのではないだろうか?
神よ、我を許したまえ。
『許し』とは即ち『救い』であり、それこそが『宗教』の真髄だと私は思う。
つまり『許し』があるからこそ、人はその先へと進むことが出来るのだ。
『許し』があるからこそ、人はさらなる高みへと進むことが出来るのだ。
『許し』があるからこそ、人は明るい未来へと進むことが出来るのだ。
イスラム教徒にしろ、キリスト教徒にしろ、仏教徒にしろ、『許し』ではなく、自らの正義を貫くことが、信仰だと勘違いしているのなら、それこそ思い上がりも甚だしい。
それではいつまでたっても神仏から本当の『許し』が得られないばかりか、いつしか神仏に見捨てられる日の訪れも遠くはないだろう。