日本メディアと遺体放送
調布飛行場を飛び立ったセスナ機が住宅に墜落し、パイロットを含む3人が死亡した事故。
TVの現場中継に焼死体が写りこんでいたとして、ネット上でちょっとした騒ぎになっている。
早速確認してみたが、結論から言えば、確かに写り込んでいるようだ。
このブログには気分を害する画像は一切掲載するつもりは無いので、敢えて画像を挿入することはしないが、ネットで調べればいくらでも出てくる。
報道したテレビ局には、かなりの批判が寄せられているとのことだ。
それはさて置き、本題だが日本は遺体の画像や映像に対する自主規制が非常に厳しい。
諸外国と違い、一部の特殊なメディアを除き、日本の報道で遺体の映像や画像が表示されることは、まず無いといっていいだろう。
ちなみに以前【捕虜斬首】なぜイスラム国(ISIS)は日本の人質殺害動画ではなく写真を公開したのか?で書いた通り、先に殺害され、『動画』が公開された欧米人とは異なり、ISIS(イスラム国)に殺害された日本人が、わずかな『画像』しか公開されなかったのは、こうした日本の文化に配慮し、必要以上に日本国民を刺激することは避けるべき、とのISISの思惑が働いたと私は思っている。
遺体映像自主禁止の歴史
だが日本にこうした特殊な文化が生まれたのは、それ程古いことではない。
戦前まではメディアには遺体の写真が当たり前に掲載されていたし、小説には『暇つぶしに惨殺死体や轢死体などの見学に出かけた』といった記述が、普通に見られる程だ。
その歴史は1948年、GHQの占領下で起きた帝銀事件からと言われている。
凄惨な遺体の写真をありのままに報道するメディアに批難が集中し、以降出来るだけそうした写真や映像の公開を、避ける傾向が強くなっていったと言われている。
(この事件後も轢死体や大量の焼死体などが全国紙に掲載されたこともあり、この事件以降に全てが無くなった訳ではないが・・・)
個人的には戦争で凄惨な遺体と共にある暮らしから解放された日本人が、そうした写真によって引き起こされる、フラッシュバックに苦しんだ結果ではないかと思っているのだが・・・
余談だが逆に創刊当初であった写真週刊誌はこうした写真を好んで掲載し、新聞などとの違いを打ち出すのに大いに役立ったようだ。
(しかしPTSDなどの精神疾患が認識され始めた2000年以降には、大幅に減少していったようだ。)
遺体から学ぶ死生観
葬儀屋という仕事をしている私にとって、遺体は珍しくも何ともない存在だが、こうした文化が50年以上も続いた結果、多くの日本人にとって遺体は、非常に特異な存在となった。
こうした日本の文化は、それはそれで素晴らしいものだと評価している。
しかし、葬儀で遺体を見て、『生や死を意識し、死に恐怖し、命を大切に思い、生きていることの有り難みを実感した』という意見は、実は意外に多い。
本物の『死体』の放つ『凄み』の所以だろう。
そう考えてみると、命に対する価値が下がり、死に対する恐怖や抵抗が薄れつつあると言われる現代において、神経質な程に『死』という存在を遠ざけることにばかりに偏重することは、必ずしも正解とも思えない。
たまに遺体の写真を生徒に見せたとして、社会から大バッシングを受ける教師がいるが、時と場合によっては『死』というものの実態を、強烈に見せつけることも必要なのかも知れない。
『写真を見て気持ち悪くなった生徒がいる』などと、メディアは騒ぎ立てるが、それこそが『死』というものだ。
ちなみに私が猛烈に戦争を反対する理由は、小学校の低学年に見た(というより見せられた)原爆資料館の写真や、戦中の地獄絵図を描いた巨大な円山応挙の絵画が、強烈なトラウマとなっているからに他ならない。
見たくない現実には蓋をして、精神を徹底的に守ろうとすることだけが、いつでも最良の方法とは限らない。たまには荒治療も必要だ。
勿論被害者の遺族への配慮など、考えなければいけないことも多いのは事実だが、様々な観点から、再度柔軟且つ慎重に考えていく必要があるのかも知れない。