事故後の裁判と責任追及
セウォル号沈没事故の責任を問う裁判で、当時の海洋警察・救助艇長に懲役4年の実刑判決が下ったことが明らかになった。
海洋警察が適切な救助を行っていれば、乗員全員の命は十分に助けられたと、裁判所が判断した結果だが、それにしても海難事故で、最も頼るべき存在のひとつであるはずの海洋警察に、みすみす見殺しにされたとあっては、犠牲者も浮かばれまい。
事故当初は「海運会社と船長、乗組員の無責任な態度が直接的な原因」だと、声を荒げていた朴大統領だったが、この判決により国にも非常に重大な責任があったことを、明確に裁判所が示した形となった。
死刑に値するとまで言われた船長、身勝手な船員達、杜撰〔ずさん〕な管理会社、プロ意識の欠片もない海洋警察など、正に韓国社会の闇を照らし出したような事件だ。
船員達には懲役5年~30年の実刑判決が下り、一番最初に逃げ出した船長には懲役36年の実刑判決が下った。
しかしながら、やはり一番の元凶は間違いなく国だ。
カルネアデスの板と緊急避難
海難事故にまつわる有名な話に「カルネアデスの板」という話がある。
舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。
するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。
しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。
その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。
「カルネアデスの板」(ウィキペディア)
簡単に言えば自分が助かる為なら限度はあるが、基本的には他人を殺してしまっても仕方がない、といったところだ。
これはあくまでも物語の中での出来事だが、実は日本にもこの様な事件が起こった場合に、適用される法律が存在する。刑法第37条の「緊急避難」がこれに当たる訳だが、現在多くの国がこのような事件に対して、同じように「殺人致し方無し」というスタンスを取っている。
災害対策の基本理念
これをもって「だから船長以下船員の行動は、ある程度仕方がない!」なんて言うつもりは勿論ない。(そもそも、船長は最後まで乗客を守る義務がある。)
しかし緊急時において、自分の命を守る為なら、他人を殺しても構わないと、多くの国の法律に明記されている。何が言いたいかといえば、人間とは「かくの如く自己中な生き物」だということ。
皆さんは自分が確実に死ぬとわかっている、或いはそこまでいかなくても、命の危険にさらされているかも知れない状況でも、他人の為に自分の命を犠牲にできるだろうか?
私は自分も含めて、多くの人間にとってそれは非常に困難なことだと思っている。そう考えれば事故が起こった時、人間が常に道徳的に正しい行動をとることを前提にして、対策を考えているようではダメだということだ。
何度も言うが、人間とはとても自己中心的な行動をとる生き物だ。
これを前提にして考えるならば、船長が逃げる必要など全くない(つまり沈没しない)状況を作ることは大前提だが、極論を言ってしまえば例え事故が起こって船長がまっさきに逃げても、全ての人間の命が助かる対策くらいまで、真剣に考えているようでなくては、甘いということだ。
残念ながら韓国政府には、この様な心構えは微塵も感じられなかった。
最後に日本の災害対策に目を向けてみよう。世界に的に見ても、日本の災害に対する対策・対応・準備は実に素晴らしい。
2011年に日本で起きた「ありあけ号」沈没事故。高波を受けてコンテナを留めてあるチェーンが切れ、コンテナが片側に寄ってしまったことにより「ありあけ号」が沈没した事故だ。
「セウォル号」とは同型の船体であり、沈没の経緯も非常によく似ている為、何かと比較されている。
この事故を受けて国土交通省は、積荷の固定装置の取り付け義務や、固定方法の改善、さらには荒天候時の積荷制限など、即座に大幅な規制を発令した。
「もしも」の時に備え自衛隊や海上保安庁、全国の警察は事件や災害に対する厳しい訓練に耐え、学校や自治体では避難訓練やら集団下校やら、もしもの時に備えた準備に余念がない。
「もしも」が現実のものとならぬよう、お役所は目を光らせ、企業では上司が事あるごとに、安全性だのコンプライアンスだのとがなり立てる。
留学やバックパッカー時代など、実に様々な国を見てきたが、ここまで徹底している国はまずないだろう。
それは取りも直さず日本人が「事故は起きるものであり、人間とは常に適切な行動が取れるとは限らない生き物だ」ということを、きちんと認識しているからに他ならない。
しかし、どんなに用意周到に対策・対応。準備をしようとも、残念ながらそれでも災害による犠牲を完全に無くすことは出来ない。だからこそ世界トップレベルの準備をしても、足りるということはない。故に日本政府や自治体は、事あるごとに対策不足だと叩かれている。
そんな姿を見て、韓国政府の認識の甘さを改めて思い知らされる。
一国の最高機関としての政府が打ち出す安全対策は、ほんの少し間違うだけでも、即、大勢の人の命に直結しかねない非常に重要なもの。故に常に「最悪の最悪」を想定したものでなくてはなくてはならない。
多くの人間の死を無駄にしない為にも、この事件をきっかけに韓国政府が変わってくれることを願って止まない。