死後から四十九日までのお供え物の飾り方
火葬された後にご自宅へと帰ってきた故人(ご遺骨/お位牌/遺影写真)
葬儀屋が用意してくれたご自宅飾り専用の【後飾り祭壇】にお飾りして、ようやく一息ですね。
ちなみにご自宅用の後飾り祭壇のことを、【中陰飾り・中陰壇】と呼びます。四十九日を過ぎて仏になるまで、仏壇(仏のおわす壇)には入れませんので、中陰飾りが故人の仮のお住まいになります。
では、今晩からのお供え物はどうしましょう?
ご飯は?団子は?水は?好物は?
昔は故人様用の野膳なんて物を用意していたような気が・・・
結局何をいつ、どの様に供えたらいいの?
そんな疑問を持ったことはありませんか?
故人(死者)の食べ物
結論から言ってしまえば、亡くなった瞬間から故人はもうこの世の物は一切食べません。
物理的にも仏教的にも。
死人に口無し!
ちょっと意味が違いますね…
気を取り直して…
では何を食べるのか?
霊(四十九日まで)
仏教では、四十九日までの状態を【霊】と呼びます。
あの世(浄土)まで、旅をしながら、思い出の場所や所縁のあった皆様の所にちょこちょこ顔を出しています。
この状態の時の食べ物は、皆様が手向ける【お線香の煙】など、香りの良いものとされています。これを食香/香食(じっこう・こうじき)と呼びます。
ですから出来れば朝・昼・晩と一日三回お線香をお手向けしてください。難しいようなら、朝・晩、それも厳しいようならなるべく一日一回お線香をお手向けするようにしてください。
仏(四十九日以降)
霊の状態で旅をつづけた故人は、四十九日目に浄土に到達し、【仏】に成ります。これが世にいう成仏です。
これ以降は甘露(甘くて美味しいもの)などの、浄土の食べ物を食するようになります。
まとめ
霊の間は、ご飯や皆さんの手向ける線香の煙などの香り、四十九日経って仏様になった後は、甘露(かんろ)など、あの世の食べ物を食べます。
ちなみに浄土真宗の考え方では、あの世までの旅の期間がありませんので、亡くなってすぐに仏になります。
廃れ行く当日埋葬
納骨の時期については、地域によっては当日埋葬の場所もあるでしょうが、現在は都市部を中心に、四十九日前後に納骨することが一般的になりつつあります。
しかし、一昔前までは当日埋葬が当たり前でした。葬儀が終われば、墓所に直行して納骨まで済ませてしまったものです。
一昔前のお供え物と言えば、何をおいても『野膳』ですよね。
供え物の定番「野膳(のぜん)」の昔と今
本来はもうこの世の食べ物は食べませんので上記の食べ物は必要ありませんが、それではあんまりなので、昔は気持ちの整理が付くまで、野膳と言って、ご飯や味噌汁、お茶、お水、団子などをひとつのお膳にして、こまめに墓にお供えしていました。
野膳は、前述した食香、つまりそのものは食べなくとも、良い香りを届けるという意味でも有効な手段でした。
しかし高齢化や墓が遠い等の理由で、現在はあまりしなくなりました。
また、カラスや野犬に食い荒らされ、墓が汚くなることを嫌って、大概のお寺側も敬遠する傾向にあります。
さらに埋葬形式も変化しました。昔は遺体が腐る前に土葬してしまうしかありません。
その後埋葬形式が土葬から火葬になりましたが、いずれにせよ骨は当日に埋葬するのが一般的でした。
ところが現在は都心部を中心に、四十九日やあるいはもっと長期間遺骨を自宅などに安置しておく習慣が確立されたことも、野膳を墓に供えないことに繋がりました。
実際に何を供えれば良いのか?
こうしたことを踏まえた上で、結局のところ自宅に安置した故人に何を供えるのかと言う話です。
昔ながらの方法でいくのならば、野膳を毎日きっちり後飾りの祭壇に供えるのがベストでしょう。
しかし、実際は非常に難しいでしょう。
核家族化が進み、何かと忙しい時代になりました。
葬儀屋に毎日何かを作って供えるように言われ、負担に感じる遺族を多く見かけます。
ならばどうすれば?
結論から言ってしまえば、何も供える必要はありません。だって食べないんだから。
食香は線香やお花の香りで十分!
ってそれじゃあ、あんまりだって?
でも、『死んだらそこでおしまい』って、皆さんよく仰るじゃないですか笑
フォアグラのソテーをお供えしたところで、食べられんせん。
な〜んて。
確かに食べられませんがそれじゃ、あんまりですよね。
基本はお線香
香は故人の食事ですからお線香は、出来れば朝昼晩、難しければ朝と晩、それも厳しければ少なくとも必ず一日一回は手向けたいところ。
その際は四十九日までのお線香の本数に注意してください。
お線香の本数は故人があの世までの道に迷わないように、【1本】が正解です。
水
またグラスに入れた水も一日一回、出来れば朝にお供えしたいところ。お茶はお気持ちで、どちらでもOKです。
故人が生前使用してたグラスがあれば、そちらを使いましょう。
ちなみにグラスに入った古い水は流しではなく、なるべく土に返しましょう。プランター等でもOKです。
循環させるという行為が、命の輪廻と重なり、故人の新たなる旅立ちに良い結果をもたらしてくれます。
貰い物/購入品
特に気張って何かを作る必要はありませんが、例えば何か気の利いたものを買ってきたり、あるいは小洒落た物を貰ってきたら、まずお供えしましょう。
故人は自分では食べられませんが、あなたの近くで(良いな〜)って思いながら見ています。
お線香と共に真っ先にお供えし、『こんな物買ってきたよ〜』『こんなもの貰ってきたよ~』と報告してあげたら、『そうかそうか、みんなで美味しく食べておくれ』と、喜んでくれますよ。
報告が終わったら、もう下げてしまって大丈夫です。
もちろん機会があればたまには、故人の好きだった物をお供えしてあげるのも良いですね。
野膳(ご飯・味噌汁等)
先述の通り、ご飯をあげる必要はありませんが、お気持ちの整理がつくまでは・・・ということであれば、それでも構いません。
その日作った物、例えばご飯と味噌汁、おかずを少し小皿によそって、お供えするなんて方法もあります。
ただしご飯をあげるならば、以下の点に留意してください。
一番ご飯
炊きたての最初のご飯が望ましい。
山かけ/立て箸
いわゆる『山かけ』(ちゃわんにてんこ盛り)にする必要も、お箸を立てる必要もありません。
茶碗は何でも構いません。仏壇用の飯盛り器があれば、それでも構いません。
お供え後の扱い
ご飯やおかずはお供え後、お線香を手向けたら、すぐに下げてしまって結構です。飾りっぱなしで、カビが生えて捨てるのは一番ダメ。
大切なのは「無理のない範囲」
炊きたてがない、メインがご飯ではない(パスタとか)・・・
それならそれで結構です。
外食した、ほとんど何も食べなかった・・・
それなら何もしなくても構いません。その代わりお線香だけは、しっかりあげてくださいね。
当日埋葬地域のお供え物
念のため当日埋葬の場合についても記しておきます。
こちらも先述したとおり野膳はお寺に残してきてはいけません。
なるべく住職や葬儀屋と相談し、ご飯やお団子は出棺前のお別れの儀の時に棺の中に入れて、遺体と一緒に火葬しましょう。
(たまにこだわりの強い住職で、どうしても墓所に供えるように言われたら、言うとおりにしてください。)
空の茶碗は埋葬時にお墓に持って行き、水を張って置いておきましょう。
初七日〜七七日(四十九日)までの7日ごとがベストですが、行けなければお墓に行けるタイミングで、その都度水を取り替えてあげましょう。
お墓が汚れますので、ご飯などの食べ物は一切持って行く必要はありません。
(住職の指示でご飯や団子を供えた場合も、翌日には処分するように指示が出ると思いますので、同じように水を張っておいてください)
位牌や遺影は自宅に持ち帰って飾るでしょうから、そちらは後日埋葬と同じような手順で大丈夫です。
お供え物の意味を知ろう
順序が少し逆になってしまいましたが、最後にそもそも何故お供え物を供えるのか?
お供え物の意味を書き記しておきましょう。
たまに毎日のお供えはきちんとしたいが、『老人の一人暮らしで、仏様にお供えした分まで食べきれない』とおっしゃる方もいます。
そんな時は自分の食べる分をお供えし、お線香を手向けた後、自分の分として食べてしまうのも有りです。
そんな失礼な!?って思うかもしれませんが、前述のとおり故人はこの世の物は食べません。
でも故人は死後四十九日は大変苦しい旅の途中。生きている人間の応援が必要なのです。
何かを供えるという行為は、『あなたのこと忘れてないよ〜だから頑張ってね!』という気持ちを届けるひとつの手段です。
決まった物を決まったとおりに供えるのが目的ではありません。
その思いを届けることそのものが目的なのです。
だから、ちゃんとその気持ちを持ち続け、毎日お線香は必ず手向ける、あるいは一日一回は天に向かって手を合わせるなど、日々の気持ちが届いていれば形式にこだわる必要はありません。
物をお供えする行為は、あくまでも故人とのコミュニケーションの一環でしかありません。
故人様を思う気持ちがなければ、いくら形通りにやっても何の意味も待たないし、逆に気持ちさえあれば、形式にこだわる必要など全くありません。
無理なく出来る範囲でお供えをしましょう。
まとめ
- お線香はできる限り毎日手向ける(理想は朝昼晩)。出来ない時は、どこでも良いので一日一回は故人を思い手を合わせる。
- 出来れば水も朝に供える。古い水は土に返す。
- 貰い物や購入品は一旦祭壇へ。たまには好物などを買って供えてあげるのも良い。
- その他のお供え物は、自分の食べる分を一旦お供えするなど、出来る範囲で良い。
- 色々昔からの決まりを言う人間もいるが、時代と共に忠実に実行することが難しくなっていることを理解し、あくまでも基本は無理をしないということ。
何度も述べてきましたが、いくら決められた通りにきちんとやったところで、形にこだわるだけで、気持ちが伴っていなけれは何の意味もなしません。
逆に気持ちがあれば、少々やり方が違かろうが、大した問題ではありません。
要は行為そのものではなく、あくまでも『故人への応援』と『故人を忘れていない』という気持ちを届けるためのものであり、もっと大きく言えば『仏様(故人)を大切にしなさい』という、仏教の大きな教えに当たるわけなのですね。