追善供養(法要)の意味
「回向(えこう)」とは
仏教特有の考え方に、回向というものがあります。
僧侶が葬儀や法事の場で『謹んでご回向申し上げます』というのを、聞いたことはありませんか?
回向とは世界的に見ても非常に珍しい考え方で、多種多様な宗教の中でも稀有な存在です。
追善供養とは
ここまでくれば少しずつ察しがついてくるかも知れませんね。
追善供養とは、『追って行う善い供養』という意味です。
元々の供養とは、仏や故人に心からのお経や香、華、燈明、食べ物などの供養物を手向けること。
ではなぜ『追善』なのか?
亡くなってからの四十九日間は、あの世までの旅路が待っています。
この期間というのは、『この後どういう所(形)に生まれ変わらせるのが良いのか?』ということを、仏様が考える審査の時間でもあります。
初七日、二七日、三七日・・・と続く七日ごとの区切りの法要は、仏様がお導きをくださる日でもあり、同時に審査の日でもあります。
かの有名な閻魔大王は、五七日(35日)にお導きをくださる、お地蔵さん(地蔵菩薩)の別のお姿とされています。
正に裏と表の顔ですね笑
聖人君子ならいざ知らず、人間誰しも気付いていながら、或いは気付かないうちに、大なり小なり罪を犯しながら毎日を生きています。
しかし審査の時ともなれば、仏様の前では全ての悪事が白日の元に晒されてしまいます。
あっ!と思った時には時すでに遅しとなっる訳ですが、それでもどうにかしたいと思うのが人間です。
時に残られた人間は、どうにも出来ないもどかしさで、何かと気を揉んむ日々を送らねばなりません。
そこで登場するのが、追善供養です。
『その脂肪無かったことに!』ならぬ、『その悪事無かったことに』という訳です。
残された人間のする供養や功徳を故人に回向して、故人のした生前の罪の重さを軽減してもらう、これが追善供養です。
さらに死後皆様が故人に対して行うこうした様々な善い供養が、故人に回しめぐらされ、やがてはあなたの元に戻ってくるのです。
ですから、特に四十九日の間は積極的に且つ集中的に良い行いをしましょうねという訳ですね。
実質的な追善供養(年忌法要)
でも、具体的には何をするの?ということになりますね。
ここからは少し事務的な話になりますが、具体的には四十九日や百箇日、一周忌、三回忌などの年忌法要を指して、追善供養ということが多いかも知れません。
追善供養 = 節目の法事と覚えておけば、間違いありません。
しかしながら、先程も申し上げたとおり、追善供養とは故人を想って行う心ばかりの供養のことです。
何気ない日に故人の好物を手にお墓参りをする、亡くなったおばあちゃんのことを思って仏壇に庭の花を手向ける、大好きだった父のためにと線香やろうそくに火を灯してそっと手をあわせる、これらも立派な追善供養です。
或いはいつもは見過ごしてしまう道端のゴミを拾う、電車やバスで高齢者に席を譲る、親の手伝いを率先してやる、こうした良い行いも広義の上では立派な追善供養です。
つまり難しい言葉にとらわれず、自らの思いで手を合わせ、故人に届けと善い行いをする、供養物などなくとも、この気持ちがあればたちまちにそれは追善供養となるのです。
もちろん七日ごとの節目、節目の日には、特別な法要を執り行わなくとも、故人を思い、そっと手を合わせることを忘れないでくださいね。
回向文(えこうもん)
最後に回向文について触れておきましょう。先述の回向という考え方をお経にしたのが、文字通り回向文です。
回向文とは・・・日常の勤行や法要の終りなどに、その読誦した経典の功徳を自他あるいは死者などに振向けることを表明する偈文。
原文願以此功徳 [がんにしくどく] 普及於一切 [ふぎゅうおいっさい] 我等与衆生 [がとうよしゅじょう] 皆共成仏道 [かいぐじょうぶつどう]
読み下し文願わくは此の功徳を以[もっ]て、 普[あまね]く一切に及ぼし、 我等[われら]と衆生[しゅじょう]と、 皆共に仏道を成[じょう]ぜん(ことを)。
現代語訳願わくは私の行った善い行いの果報が、 この世のありとあらゆる存在すべてに行きわたり、 自分を含めたすべての人々と生きとし生けるものとが、 皆と共にあらゆるものに対しての慈しみの心を持ちつつ自らが勤め励む道を日々たえまなく進んでいきますように。
葬儀の最後に僧侶が原文・読み下し文の順に唱えることも多いお経です。葬儀の際は是非注意して聞いてみてください。
まとめ
仏教は善行をすれば、その功徳はたちまちに大勢の人の間を駆け巡り、やがては自分の元へと帰ってくる。
だから折に触れて善行をしなさいよ。故人を偲び、節目に心ばかりの供物を手向ける追善供養もそのひとつですよ、ということです。
そして、それをあくまでもただの儀式としてやるのではあまり意味がありません。
大切なのはきちんとした意味を知り、気持ちをもってそれに臨むことです。
仏教が形骸化し、残念ながらこうした意味を語る僧侶も少なくなってしまいました。
しかし少なくともこのブログを訪れてくれた方々は、その意味をしっかりと理解し、心をもって仏と向き合う気持ちを学んでいただければ、これほど嬉しいことはありません。