オリジナル会葬礼状を作ろう
人が亡くなったとき『しなければならないこと』は数あれど、『したいこと』『やりたいこと』は何だろうか。
感情のまま涙を流すこと。
そのために、しばらく1人になることだろうか。
もしくは現実を受け入れるために、故人の人生を思い浮かべることかもしれない。
上記を総じて言えるのは『大切な人を失った悲しみと向き合うこと』ではないだろうか。
『しなければならないこと』に追われる虚しさ
悲しいはずの人が悲しめない。
というのが、大切な人を失くした時の実際の現状だろう。
『◯◯が亡くなった』と1人誰かに連絡すれば、たちまち電話・訪問の嵐だ。
やりとりの中で自分の悲しみや辛さを伝えられる場面もあるだろう。しかし、相手側からも同じような感情をぶつけられる。
1人、2人で済むならいい。だが、自分自身が悲しみの真っ只中にいる状態で、何人もの人に人の死を報らせる・悲しみの感情を向けられるのは大きな負担である。
それに加えて、葬儀社選びや通夜・葬儀の調整や事務的な手続きにも迫られる。
喪主・喪主の代わりを果たすとなればなおさらだ。誰も待ってくれない。有るのは『いつまでにお願いします』という期限だけだ。気の休まる瞬間がどこにあろう。
悲しいはずの人が悲しめず、忙殺される。
葬儀が忙しいのは、悲しみを紛らわすためだと言われている。葬儀でバタバタしているうちに、悲しみを一段階超えることか出来るからというのだ。
それでは全てが終わるまで時間と対応に追われる人が、故人を偲ぶ方法は?
故人と向き合う時間を、ある意味で強制的に作れる方法がひとつある。
それはオリジナル会葬礼状を作ることだ。
オリジナル会葬礼状というのは、故人の人柄・好きだった物事・家族との思い出を記した礼状をいう。
一般的な礼状に記載されているのは、亡くなった故人の名前・年齢とご葬家の親族名くらいだろう。
“礼状”であるため通夜・葬儀参列のお礼文が記載されているものの、定型文で形式ばった堅苦しく読み辛いものがほとんどだ。
慣習として残っているだろうが、受け取る参列者にも費用を払うご葬家にも『作ってよかった』と自覚できる点が何ひとつない。
一方で、オリジナル会葬礼状はどうだろう。
受け取る参列者も、費用を負担して作成するご葬家も、一般的な礼状との違いにまず驚くだろう。
なぜならば、オリジナル会葬礼状には故人が生きてきた証・姿が残っているからだ。
文面を読んだ人の心の中には、必ず故人の姿が残る。
オリジナル会葬礼状に故人が生きてきた証・姿を記すためには、生前の故人を知る人物から話を聴くしかない。
では、誰が話すのか。誰が話すのが最もよいのか。
故人が夫なら妻、親なら子どものように関係性の深い間柄である人物が望ましい。関係性が近ければ近いほど濃密な話が聴けるためである。
と同時に、大切な人を失った悲しみと向き合う時間をわずかにでも提供できるからだ。
葬儀の多くは、未だ慣習に沿って決まることが多い。
故人が夫なら妻、親なら子どもが喪主を務めることがほとんどだろう。
そして、多くの喪主が故人を失った悲しみと向き合うことも、故人を偲ぶ時間を持つこともなく時間と対応に追われる。
ご葬家からすればオリジナル会葬礼状の作成に伴う取材は、たしかに面倒かもしれない。
葬儀社や葬儀担当者からすれば、業務の手間が増えるだけにも思えるだろう。
だが、オリジナル会葬礼状を作成することは、ご葬家が慌ただしい時間の中で唯一ひと呼吸おける手段だ。
悲しいはずが悲しめない人が、自分が抱え込んでいる感情を吐き出し、故人を想うための手段にもなり得る。
弔いのあり方とは・・・
人は必ず、いずれは死ぬ運命にある。
死が根底から覆らない限り、人が人を弔うことが無くなることはないだろう。
しかし、今の通夜・葬儀のあり方が今後も続いていくとは限らない。
けれども弔いの本質はきっと変わらないし、変えてはならない。
そのために『大切な人を失った悲しみと向き合う』『故人を偲ぶ』重要性を、1人ひとりに多く考えてもらいたいと思う。